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241026

あまり人には話したことがないし、おそらくこのブログを見に来た人にのみ共有されることだけど、中二の冬に父親を癌で亡くしている。 言葉の使い方は難しい。亡くしている?亡くした? 癌で 亡くなった? 思わずその言葉が正しいのか不安になる。亡くしているだなんてあまりに近親感が欠落しているし、15年近く経っているからといってあまりに外側的で俯瞰的な位置に言葉があるように感じる。亡くしたのか、もはや死んで行ったのか、死んだのかすら今も分からない。分からないからこのような態度を取りながら生きているのだけど。あまりに唐突だった気もする。でも闘病の期間は半年もない。半年もないのだからきっと唐突だった。でも中二の日々なんて圧縮されて、全てが一瞬だった。病院へ通うのも、学校に通うのも会う人間が違うだけのように感じていた。だから唐突であったとも思わなかったし、むしろ長かったようにも感じる。中二で受ける苦難は苦難を鈍感にさせる。 その頃からずっと、他者の死に対して多くのネガティブさを持たなくなった感覚がある。遠くも無ければ近くもない。扉を開いたらそこにあるようにも感じているし、扉が開かなければそこにはないようにも思っている。それにイメージは観念的に自分の大気の周りにある感覚もあるし、だとしても観念にしては干渉してこない奔放さもある。14歳の冬に、父親を無くすという経験は何もかもをそこに、通った病院に残して来たように思う。 よく人に話す時にこういう例えをする。人の死は遠くに引っ越して会えなくなった友達のようだ。と。遠くに引っ越した友達とはきっともう二度と会えない。でも生きているから会える可能性は現実的には残されている。何となくだけれど死に対してもそれを感じている。限りなく会えないのだから、死と同期されているように思っている。遠くに引っ越した友達と、どれだけの人間が能動的に会おうとするのだろうか。もしくは偶然性に身を任せて会える日を期待もせずに待ち構えるのだろうか。あまりにこれらは死に別れた人間との再会への期待の仕方に似ているように思う。まあ生きている人間への再会の可能性の方が有限性を持つとは思うが。でもそれでも僕の尺度の中ではそうなのである。 いつからか、というか1年くらい経ってからどんな声で話していたのか分からなくなった。思い出せなくなった。思い出そうとしても思い出せないのだ。声は忘れられて...

241010

今元気に働けているのは、いまあらゆる事を能動的に(逆能動的に)動けているのは、鬱ではないからなのか。 2020年頃鬱のような感覚があったのだけど、心療内科などの存在を知らなかったから、とても辛い思いだけをして、閉塞的で、欲望に対してパラノイア的で、Twitterが身体的だった。 その頃のことを思い出す。時々やる気が無くなる時、ふとこれは脳の問題なのかと怖くなる時がある。僕は僕の脳を乗っ取ることが出来ないなとわかる。能動態が崩れていく感覚は残る。けれどメタ的にこころ(精神)の問題ではなく、脳(身体)の問題だな、つまり抗えない部分の問題であるなあと処理していき笑えてくるから何となく元気になって忘れていく。 今はよく、とはいえ最後に残るのは自分の身体であり、人生なのだと思うことがある。 大体のことは仮固定で済ませられるように思う。システムや構造の問題(国家や社会が他者性における幻視のようななにか)であるから、自分の身体が解決する問題では無いなと思うから不安はなくなる。 だからこそ元気でいようと思うのだけど。僕が資本主義に負けるのはアイドルオタクであるときだけで良いから。(限りなくそう。それ以外はできるだけ、手を動かしていこうと思うように) 実際に鬱の診断を受けたわけじゃないから、やきもきするが、いつかまた完全に鬱だけになる日が来るのだろうかと不安になることがある。 鬱なのは私の問題では無い部分が多いと感覚的にわかるからこそ、戻れなくなる日が来るのかもしれないと不安になることがある。 明日もどうでもいいことに笑っていられるといい。 今日は部屋を片付けたし、買い出しも行けた。ジムにもこの後言ってあとは非美学を読み終わったら寝よう。明日から仕事だ。

241008

今日は休日で、昨晩はよく計画をイメージして寝た。 朝起きて、ジムに行くが閉まっていた。散歩になったのだと思うことにした。 昼に予定していたフレンチに行くと休みだった。食べログ上ではやっているからと過信しすぎていたようだ。  歩いていて良い香りがしたスパイスカレー屋に入った。まあまあ美味しかった。 食べ終わったあと歩きながら恋人にスパイスカレー初めて食べたけど嫌いだったと言われた。面白くて笑ってしまう。 歩いていたら雨が降り出した、今日はとても変な日だなと思う。 ライフハック。傘を持っていなかったら近くのブックオフに入ること。100円でビニール傘が売っているから。今日入ったブックオフには売ってなかった。散々である。 服を見たりしたら良い具合だった。何でも買ってあげるよの精神。 疲れてコメダに入ってダラダラして、最後は焼き鳥屋に入って帰った。 ㅡㅡㅡㅡㅡ 非美学はやっと6章に来たのだけど、とたんに難しくなった。読めない!と久しぶりに思う。いや基本読めないのだけど。最近は調子よく読めていたのに急に難解になった。ここがポイントなのだと思う。少しずつ読めばいい。 にしても非美学のおかげで、イマージュや内在平面、超越、超越論、超越論的がよく分かるようになってきた。とはいえソヴァニャルグも反復されていく。定期的に思い返しては地理哲学も読むのだけど。 ㅗㅗㅗㅗㅗㅗㅗㅗㅗㅗ 昨日はいつもと違う業務で外回りのようなものだった。 偉そうに同行していた人に、とにかく大切なのは継続なのだとわかったと語ってしまった。自分はとにかくだるいなと思う。みんなそれぞれの人生がある。