6月8日
『ドゥルーズと芸術』P.55 ドゥルーズやスピノザを読んでいく上でうっすらと思っていたことが確信に近くなる。常々、"法"であったり"社会"はイマジナリーのようなものであり、物質的なものではないと考えていたし、仮の状態での拘束力があり、全てを突っぱねられる可能性も留保されていると考えている。(ウクライナとロシアの戦争が始まったとき、"男性"が戦争に駆り出され、"女性や子供"は優先的に避難や国外避難をしていたときに性における平等さはひっくり返されたし、そもそも戦争は法であったり秩序であったりを覆す力がある。極端な例かもしれないけれど、その瞬間に僕は幻想に近いものであるような感覚があった。)
ここでもスピノザにおける倫理観が提示されているように、倫理観は良し悪しの可能性を提示できる。
そういえばアニポケでニャースが言っていたのだが、ポケモンにはアプリオリに悪が備えられていないそうだ。人間と接するうちに悪の感触を手に入れていくのだと。
あくまでここは創作の場ではあるし、脚本家や原作の意図があるにしても、悪という方法を持ち込むのは人間なのだ。同時に理性をどう使うかにも人間に託されている。
(とはいえポケモンとユクスキュルのような世界の見方はあまり上手く組み合わせられないから、ポケモンの話は広げないようにしておく。しかし環世界的な見方は伝説のポケモンの方が強い。あいつらは探知能力が広域にわたるからすぐ縄張り争いで揉める。)
全ては人間の理性に留保されるようにして託されている。担保されている。と信じている。信じられる。そうある人間がここに1人であり、過剰な理想家だとしても。
カニエ・ウェスト誕生日おめでとう
『ドゥルーズと芸術』P.59からドゥルーズがスピノザの記号論を乗り越えることについて書かれているのだけど、サッと抜粋して何かを言うことは出来ない。面白すぎる。ここの文章を読めている時点でこの本の元は取れてる。難しい。ドゥルーズの『スピノザ』は読んではいるけれど辞書的にしか使えていない気がする。読み直したい。
P.62「スピノザとともに、ドゥルーズは、記号を意味作用ではなく触発する力とする新たな考え方を引き出す」、記号は再領土化でもあるということなのか。芸術には様態を変化させる力があるということか。
明日は早い、そろそろ寝ようか。
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