6月18日
『ドゥルーズと芸術』P.65 「芸術の使命を徴候学、力の把捉、イメージとして定義する。/医療芸術に対するニーチェ的徴候学/音楽に対する力の把捉としての芸術/知覚イメージと行動イメージの力の情動の力能と結びつける、作用、反作用としてのイメージ」 P.66「記号と同じくイメージもまた、速度から構成された アフェクトを可能にする力の関係であり、まさにそれによってドゥルーズは、記号論をイメージと記号の類型型として発展させることができた」 緩急や速度の変化とかいう言葉はよく使われるし、つまり”強度”(内包量)ということだろう。 ━━━━━━━━━━━━━━━ P.68 ニーチェと徴候学。 エクリチュールは力を発見するし、解釈をすることで力の関係に入り込み、それは生理学者や医師のやり方になっていく。 、、、 P.72 ドゥルーズはスピノザの方法を発展させる。外延的な諸部分を経度とし、内包的な本質を緯度とさせる。その方法によって個体を区別することができるようになる。 確かにスピノザの方法は外延的な様態には無限性が与えられており、それによって他者と私を区別することが出来るその上で私自身の存在性、此性があるとも認識が可能になるけど、ドゥルーズは更にそれを具体的にさせるわけだ。面白い。緯度は、本質はどれだけでも変化の可能性を持たされているし、 ┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈ 三章後半、ベルクソンのイメージ論を援用させながら、情動イメージの話へとはいる。イメージは強弱を生み出し、それはアフェクトの地図となり映画となる。 P.91「スピノザによる悪の理論である。/完全性や作用する力を高める関係を構成する時には「良い」とされ関係を分解するときには「悪い」とされる。批評的評価はこのようなアフェクトの地図を作成する」。なるほど映画をこのようなやり方で見ることが出来るのかと驚く。"良い"と思うこと即ち、コナトゥスが拡張されることを実感出来ることと"悪し"であることは同期はせず身体を切り替えることが出来る。それは映画になる。 記号化されていく場面と印象、イメージがスクリーンに映し出され、アフェクトの地図を作り出すというわけだ。ニーチェが力の把捉の話であったなら、更にドゥルーズは進んでイメージを映画と共に手に触れられるような経験性に落とし込むわけか。『シネマ』読めていない...